スバラシイ!
非の打ち所なしの予想を大幅に上回る出来に大満足です。
まさにA New Translationで、TV版と同じだけど新しいという感じ。
共感しやすく、分かりやすく、サクサク進んで心地良い、もう一回観たい、続きも早く観たい、10月なんて待てません!!

心配されていた画面の出来も、私には全く問題ありませんでした。確かに、旧カット(TV版)と新カット(映画版追加分)の差はハッキリとあるんですが、入れ方が絶妙。
旧カットが多いところでも、一瞬挿入された新カットに引っ張られて脳が補正してくれます。これは旧カットが駄目だから新カットに替えたのではなく、如何に気持ちよく流れを作るかという意味の追加カットだと思います。
とにかく編集の巧さは驚異的で、絵だけでなく、セリフや展開の変更も、TV版に抱いていたイメージを壊したり後退させるものではありません。

ガンダムを知らない人や忘れている人は、ファーストガンダム三部作をちゃんと観てから劇場へ行きましょう!子供の頃しか観てない人にとって、大人になってから観るファーストは全然違うはずですし、Zはその文脈で観て欲しいです。

それと、本編が終わっても絶対に席を立たず、Gacktの歌を堪能しながらエンディングは最後まで観ましょうね。

※ここからはネタバレです。未見の方は読まないことを「強く」おススメします。
個人的に気になっているのは、私が以前書いた『機動戦士Zガンダム論』と、A New Translationの整合性です。私は、創作物に対する感想、解釈は、人それぞれの自由なものだと思っているので、TVの解釈が映画に通用しなくても、TV版を観て私がそう感じたのだから別に良いのですが、もしかして映画版とも整合性があれば嬉しいなと思うわけです。

今回の『星を継ぐもの』も、TV版と同じテーマを持っているかどうかを考えてみました。

まず、オープニングの最後に宇宙を漂うジオン兵の死体が出てきました。これは、TV版で繰り返されるオープニングの一つで、人の魂が神の国に辿り着くことはないだろう、というナレーションで使われていたのを作り直したものに見えます。
これは、死後永続する魂や霊は存在しないという、仏教の死生観を表すためのナレーションだったと解釈していたのですが、映画版の冒頭でそれが仄めかされているのではないかと思います。

そして、カミーユが「机の下に見た光」がカットされずに採用されています。
私のTV版の解釈では、この光は、ダカール演説後にシャトルの中でシャアが言った希望の光、対ヤザン最終戦でカミーユの額から出る一筋の光、対シロッコ最終戦の時に精神崩壊したカミーユが見る光、ZZでジュドーへ受け渡される光、同じく対ハマーン最終戦でZZが額から出すハイメガキャノンの光、そして逆襲のシャアで人類が共感した時にインドのクリスティーナの額にかかる光、アクシズを地球に落下させなかったサイコフレームの光などの先取りだと思うのです。
これが映画版でも登場した以上は、今後どう展開される概念なのかが楽しみです。

カミーユの両親が死んだ後にアーガマでシャアについて語るシーンでは、シャアは一人で組織に立ち向かった馬鹿な男と定義されます。これは、個と全体の対立というテーマが、映画版でも生きていると思わせるシーンでした。

ライラとジェリドが廊下で話すシーンは変更されています。
TV版では、アースノイドとスペースノイドの重力に対する認識の違いを例に、偏見なくありのままにものを見るようにという、中道の教えをライラがジェリドに授けるシーンでした。
このシーンは引き伸ばされて、格納庫から出撃するところまでで同じような内容の会話になります。
その後のライラが撃墜されるシーンでは、ジェリドに教えたニュータイプの定義に外れた感じ方をした自分が、オールドタイプ的だったと自省するセリフのかわりに、カミーユこそが、さっきジェリドに教えたニュータイプであることを示すものに変更されています。この一連のシーンは、冒頭、エマが、カミーユの現状認識能力の高さを評価したこととリンクし、ニュータイプの定義を示しているのだと思います。

そして、アムロが輸送機でアッシマーを撃墜する際、「奴にはアウドムラを無傷で手に入れたいという欲がある!」と言います。このシーンは、ニュータイプ・アムロの健在を表す為のものですから、この「欲」がスキを生むという感じ方はニュータイプ的であるということになります。この欲を退けるという考え方も仏教のものであり、例のTV版解釈と合致すると思います。

というわけで、とりあえず『星を継ぐもの』を見た感じでは、そのままの解釈で大丈夫そうです(^^;)