※これはTV版+旧劇場版の解釈です。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版』が始まってしまうので、未完成ですがアップすることにしました。

(上)目次
●はじめに 
●セカンド・インパクト
●マルドゥック機関
●ゲンドウ
●世界観
●アダムとリリス
●アダム・カドモン
●知恵の実と生命の実
●ロンギヌスの槍
●はじめに

天使の名を冠する正体不明の敵「使徒」。彼らは何処からともなく現れ、第三新東京市を襲撃する。彼らは地下に保管されている最初の人間「アダム」を目指す。彼らがアダムと接触すれば人類は滅んでしまうと言われている。通常兵器を無効にする「使徒」と戦う為に開発された、汎用決戦人型兵器エヴァンゲリオン。それに搭乗するのは14歳の子供達でなければならない。

この物語が何を主張したのかを考えてみる。

●セカンド・インパクト

「セカンド・インパクト」は、第二次世界大戦のメタファである。登場人物達はこれを基準にして、以下の3つの世代に分類できる。

* セカンド・インパクトを大人として体験した世代
(冬月、ゲンドウ、ユイ、ナオコ、キール等)

* セカンド・インパクト後の復興期に青春を送った世代
(加持、ミサト、リツコ等)

* その後の世代
(シンジ、アスカ等)

この分類は、シンジを取り巻く環境を作り出し、作品世界に現代の日本を投影する。戦中戦後の日本の復興を意識的に体験した大人達と、高度経済成長期~バブル期に育った子供達「ポスト団塊の世代」のトレースである。これによって、主人公碇シンジの世代は、観客として想定されている「ポスト団塊の世代」と同じ時代意識を共有するように仕組まれている。つまり「セカンド・インパクト」とは、現実世界における世代間に生じている価値観の深い断層を、作品内に反映させる為の舞台装置なのである。

この「ポスト団塊の世代」は、冷戦体制と受験戦争という特殊な環境下で育てられた。
共産主義諸国という仮想敵国、あるいは学業における相対評価のライバルなど、無条件に戦わなければならない「敵」が存在することを常に意識させられ、年功序列の終身雇用制に守られた楽園を目指して、とにかく勉強さえしていれば他には何も求められないという空気の中で思春期を迎えた。しかし彼らは、冷戦終結とバブル崩壊で、これまで信じて来た価値観と、自らの存在価値を根こそぎにされてしまうのである。

特に主人公の碇シンジの置かれた環境は、このポスト団塊の典型として造形されている。
彼は、仕事最優先の父親に顧みられずに育ち、正体不明の使徒との戦いを強要され、絶対に負けてはならないと厳命される。それがシンジの、唯一の存在価値なのである。

親の不在、押しつけられた敵との戦い、人類滅亡への不安。使徒との戦いが生み出す焦燥は、受験戦争と冷戦体制下の空気に酷似している。サードインパクトへの恐怖は、終身雇用のレールからの脱線、あるいは全面核戦争による人類滅亡への不安なのである。

この物語は、ポスト団塊の世代が中心的な客層として設定されており、物語はアイデンティティを喪失した彼らに対する福音(evangelion)となっている。

●マルドゥック機関

マルドゥックとは、古代バビロニアの神である。
エヴァンゲリオンの世界観は、カバラや死海文書、キリスト教等のユダヤ系神話及び神秘主義をベースに創られている。しかし、この機関の名前は、ユダヤ側から見れば異教の神であり、偶像崇拝の偽りの神の名前である。作品中では、この機関は実在しない名前だけのものであった。その実態はネルフそのものであり、その活動をカモフラージュする為の偽りの機関なのである。子供達の運命の背後には、この偽りの神が暗躍する。

シンジのクラスの生徒は、この機関によって選抜された、エヴァンゲリオンのパイロット特性のある子供達である。パイロットはこの世代の子供達でなければならない。勿論、巨大ロボットモノのセオリーを踏まえての事であるが、この作品における必然性がある。先に挙げたセカンドインパクトを巡る人物配置は、一貫した作品のテーマを支えており、ここでも整合性を持っている。

パイロットの世代として描かれている「ポスト団塊の世代」は、言うまでもなく、その親にあたる「団塊の世代」によって育てられた。「団塊の世代」とは、第二次大戦直後数年間のベビーブーム時に生まれた人口の多い世代を言う。彼らの価値観は、貧困と厳しい競争社会の中で築き上げられ、戦後日本の経済的復興を最優先する国の政策「所得倍増計画」などを背景に、会社中心のものとなっていった。社会への帰属意識が強く、滅私奉公をして日本を経済大国に押し上げた、モーレツ社員などと呼ばれた世代である。サービス残業、過労死、社畜などという言葉が生まれるほどに、仕事最優先で家庭を顧みる余裕はなかった。やがて帰宅拒否症候群などという言葉が示すような、家庭との距離が出来てしまう。

その結果、ポスト団塊の世代は親が不在がちな家庭環境に置かれて育つことになる。この「親の不在」が作品中に反映されている。ほとんどの登場人物は親との関係に問題を抱えているか、死別や多忙により、ことごとく親が不在なのである。同じ傾向の生育歴による影響の様々なバリエーションをもって、世代や個人差を描き出そうという試みなのだろう。皆、性格は違うが、その根拠が生育歴に求められる様に作られている。そして、特にシンジには「指示待ち世代」と言われるポスト団塊の特徴が顕著に現れている。リツコは「人の言う事に素直に従うのがあの子の処世術」だと言ったが、彼には自主性というものが無い。
彼は幼くして母を失い、父に捨てられて他人の家に預けられて育った。幼年期に親の愛情を受けずに育つと、自分に自信が持てない事により、対人関係で様々な問題を抱える傾向がある。

フロイトによれば、性器への関心が芽生える男根期に、母を手に入れる為に父と対立するエディプスコンプレックが生じ、その父への憎しみと罪悪感の葛藤の中で人格が形成されて心の成長を促すという。ここで母を手に入れる事を断念し、父の存在から生じるタブーを取り込む事で、心の中に検閲者である"超自我"を形成する。しかし、潜在期を経て性器期に入ると、この心の中の父を殺して、独自の価値基準に従って生きるようになる。即ち、一人前の大人になるのである。

シンジは、まさに子供から大人に移行する性器期にある。検閲者としての内部の父親のイメージを殺して、自分自身の価値観によって、物事を判断出来る大人にならなければならない時期である。この心の中の父のイメージとの決別を「父殺し」と言うが、これは成人する為の心理的な通過儀礼なのである。
しかし、シンジは幼児期に父と接していない為に、リアルな距離感やイメージを掴めておらず、必要以上に父を恐れている。未知の存在であり、強大な父への恐怖に萎縮してはいるが、父に愛されているという信頼は無く、常に捨てられる不安に苛まれている。

その結果、自分の存在意義を信じられず、誰にも必要とされていないと感じている。
裏切られるのを恐れ、他人に期待を持たないようにしている。幼年期に親の愛情を受けずに育った子供が陥る、アダルトチルドレン症候群の症状にも似ている。
(エヴァパイロットを単数でもファーストチルドレン等と複数形で呼ぶのは、これを意識しているという説もある。)

しかし、『まごころを君に』の中で、初号機に乗ったシンジは、謝罪する父を頭から喰らう。
このシーンは、父のイメージとの決着をつけた事を意味する、まさに「父殺し」の瞬間を表している。
TV版最終話「世界の中心でアイを叫んだけもの」では、シンジの補完が完遂された時、「父にさようなら」というテロップが出るが、これは父のイメージと決別したことを言っていると思われる。

大人になる為の通過儀礼「父殺し」。
そして人類が次の段階へ移行する為の通過儀礼「人類補完計画」。
二つの通過儀礼は、二重性を持って物語を構成している。

ゲンドウは、人類補完計画を"神へ至る道"と表現した。彼は人類補完計画によって神を凌駕せんとする。
そしてゼーレは、「神に等しい力を手に入れようとしている」とゲンドウを非難する。

●ゲンドウ

神になろうとするのは罪である。
創世記の失楽園物語に誘惑者として登場する蛇は、かつて偉大な天使ルシファであった。やがて慢心して神になろうと反旗を翻し、神に罰を受け地上に落とされた堕天使=悪魔、サタンであるといわれている。
しかし、ユダヤ神秘主義の一つであるグノーシス思想では、蛇は人に知恵をもたらし、偽りの神デミウルゴスの支配から人類を解放した解放者として崇める。不完全な世界を創造したデミウルゴスを、無知で邪悪な偽りの神であることに気付かせ、その支配から人類を解放したと考えたからだ。

ゲンドウは人が築き上げた街を、臆病者が逃げ込んだ楽園だと言う。そしてシンジは、「逃げては駄目だ」と言う言葉と共に、去り行くゲンドウの背中のイメージを持つ。ゲンドウがシンジを捨ててまで、逃げずに向かい合おうとしているものは何か。
それは神である。人類が自分自身の足で歩けるように、偽りの神の支配から自立しようとしているのである。ゲンドウが目論む「神殺し」の儀式は、人類にとっての「父殺し」に相当するものと言えるだろう。

ところが、作品中でゲンドウにはもうひとつの属性が与えられている。マルドゥック機関についての真相が明らかになった時、加持が「ネルフそのもの」と言ったにも関わらず、ミサトは何の注釈も無く「ネルフ」の部分を「碇指令」と言い直している。ゼーレの会話の中でも、現在のネルフはゲンドウ一個人の占有機関と成り果てているというセリフがある。「ネルフそのものであるマルドゥック」=「ゲンドウ」であるならば、彼には"偽りの神"という属性が与えられているということになる。

そしてシンジは大人になる為に、父を凌駕しなければならない。彼を支配する父の影響力を拭い去らなければ、彼の苦悩は終わらない。ゲンドウ(人類)が超えなければならない神にあたるのが、シンジにとっての父ゲンドウなのである。そう考えれば、この作品の世界設定やストーリーラインは、シンジの心の成長を投影して作られているということになる。

では、シンジが父ゲンドウを、頭から喰らう「父殺し」に至る為に必要だった、「人類補完計画」とは何だったのか。それを考える為には、ユダヤ神秘主義の世界観を知る必要がある。

●世界観

使徒達は何故、第三新東京市の地下に保管されたアダムを目指したのか。

ユダヤ神秘主義の一つ「カバラ」では、全き神エン・ソフが、両性具有の完全なる人アダム・カドモンを、四層からなる世界の第一階層、神性界アツィルトに創造した。
アダム・カドモンは階層を降るごとに性別、個性と分裂、劣化し第四階層、物質界アッシャーに至り、不完全な物質に依存しなければならない存在となった。それが人間である。

だから不完全な人間は、精神性を高めてアダム・カドモンの状態に還らなければならない。この世界観と原理を表す図形が、ネルフ司令室の天井に描かれているセフィロトの樹=生命の樹なのである。

このカバラの原理を踏まえれば、霊的な両性具有の神人アダム・カドモンから最初に分化したものが、男である「光の巨人アダム」と、女である「ターミナルドグマのリリス」である。そして、この生命体より個性に分化したものが使徒なのである。

使徒は、粒子と波の両方の性質を備える光のようなもので構成されている。つまり、霊と物質の中間的な存在なのだろう。
そして使徒の内、もっとも物質的な存在が、第拾八使徒ヒト、つまり人類なのである。
また、ロンギヌスの槍によって活動を停止させられたリリスは、下半身が無く何対もの小さな足が生えていた。これは分化した個性が単体に収束していく過程をデザインしたものであり、槍を抜くと大きなリリスの完全体となることからも見て取れる。

アダムより生まれし者は、アダムへ還らなければならない。
アダムより生まれた使徒達は、全てが完全な、欠く所の無い至福の状態を目指して、アダムへ還ろうとする。

そして、第拾七使徒タブリスによれば、生き残る生命体は一つしか選ばれない。
つまり一つが選ばれれば他は滅んでしまうのだろう。初めのうちは、これを防ぐ為にネルフが存在すると言われていた。
しかし、ターミナルドグマに保管されていた巨人は、アダムではなくリリスであった。タブリスが、目前に行くまでその事に気付かなかったところをみると、他の使徒も囮であるリリスにおびき寄せられて、第3新東京市を襲撃していたと思われる。
何故なら、硬化ベークライトに固められた胎児のアダムがネルフへ引き渡される前から、使徒は第三新東京市を襲来しはじめているからだ。再生されたばかりの小さなアダムより、巨大なリリスの方が使徒をひきつけたとしても不思議はない。むしろそれを知っていたからこそ、高いリスクを払ってまでアダムを卵に還元するという計画が実行されたのである。
この読みは的中し、胎児のアダムが気づかれたのは、ドイツから日本へ移動した時だけだ。第六使徒ガギエルだけは本物のアダムに気がついたようだが、その後はアダムと同化したゲンドウが不在の時でさえ、使徒はネルフ本部を襲撃したのである。
彼らは常にアダムを目指していた。カバラの原理に基づいて、分化する以前の完全な状態に還ろうとしていたのである。

●アダムとリリス

使徒さえも、リリスをアダムと区別できなかった。
ユダヤ教の聖典『タルムード』によれば、リリスはアダムと同じく地の塵から創られた。神話のエヴァが、アダムの肋骨から創られたことを考えれば、作品中のリリスは、アダムと同等の存在として登場しているように思える。リリスはアダムの前妻であり、アダムの下に横たわるのを拒否して彼の元から去った。その後リリスと悪魔との間に生まれた子供がリリンである。
タブリスは、人類をリリンと呼ぶ。ミサトは、人類がリリスと呼ばれる生命体の源から生まれた、18番目の使徒であると言った。人類はリリスから生まれたのである。

しかし、タブリスは自らをアダムより生まれし者と言った。リリスより生まれた人類をリリンと呼ぶからには、タブリスはリリンではない。この時の「アダムより生まれし者、アダムへ還らなければならないのか」というセリフは、その文脈で考えれば、使徒がアダムを目指す理由をも説明していると思われるので、他の使徒もそうなのだろう。
第拾八使徒ヒト=人類だけが、リリスから生まれたのであり、それ以外は全て、アダムへ還ろうとしている。リリスでは代わりにならない。
この作品を理解する為には、作品中で区別されているアダムに属するものと、リリスに属するものの役割を把握する必要がある。これは、ゼーレとゲンドウの対立に深く関わりのある設定なのである。

ゼーレとタブリスの会話の中に、こんな一節がある。

ゼーレ「それは偽りの継承者である黒き月よりの我等の人類、その始祖たるリリス」
ゼーレ「そして正統な継承者たる失われた白き月よりの使徒、その始祖たるアダム」
ゼーレ「そのサルベージされた魂は君の中にしかない」
ゼーレ「だが、再生された肉体はすでに碇の中にある」
タブリス「シンジ君の父親…彼も僕と同じか」

タブリスとゲンドウの何が同じなのか。ゲンドウの掌には、再生されたアダムが埋め込まれている。アダムの魂を持つタブリスと、アダムの肉体を持つゲンドウ、二人ともアダムの属性を持つということが同じなのである。

そのゲンドウは「人類補完計画」を完成させる為、アダムとリリスの禁じられた融合が必要だと言った。そして、アダムの埋め込まれた手をレイの身体に埋める。
ここでレイは「アダムとリリスの禁じられた融合」の対象となっているのである。このことでレイがどう言う存在だったのかが見えて来る。

●アダム・カドモン

タブリスがレイと初めて会った時、君は僕と同じだと言った。
タブリスとレイの何が同じなのか。

レイは、アダムの肉体を持つゲンドウによって、「アダムとリリスの禁じられた融合」の対象にされている。ゲンドウが「アダム」なら、当然レイは「リリス」として禁じられた融合を行うことになる。

先に引用したゼーレのセリフによれば、タブリスはサルベージされた「アダムの魂」を持っている。
レイが彼と同じなのだとしたら、サルベージされた「リリスの魂」を持っていると考えられる。
リツコがレイのダミーを破壊した際、魂はあの子にしか宿らなかったと言ったが、その魂とはリリスの魂なのである。
エヴァを無人で動かす為に、レイのクローンによってダミーシステムが作られたが、『Air』でゼーレによって送り込まれた量産型エヴァには、「KAWORU」と記されたダミープラグが挿入されている。

つまりレイはネルフがクローン技術で造ったリリスの分身、タブリスはゼーレが造ったアダムの分身である。サルベージされた魂が宿らせてある、という言い方がされているので、肉体は人間をクローニングしたのである。シンジが母のイメージを重ねていることや、ゲンドウの執着ぶりを見ると、少なくともレイの肉体は、ユイのクローンであると言えるのではないだろうか。そして、カヲルもおそらくはユイのクローンとみてよい。シンジとの共感は、同性愛を匂わせたのは観客へのサービスであるが、物語の主旨から言えば兄弟愛によるものではないだろうか。それ以外の第三者を持ってくる必要性も思い当たらない。

かくして、ゲンドウとレイが融合することで「アダムとリリスの禁じられた融合」が果たされ、分化する以前の完全な人、両性具有アダム・カドモンが現れる。
それがレイとカヲルの両方の上半身を持ち、恐らくは下半身も両性具有の巨人なのだ。「人類補完計画」の遂行に必要だった「アダム計画」の最終目標は、このアダム・カドモンを具現化する事だったのである。

ただし、レイがアダムの埋め込まれた手だけを取り込み、ゲンドウを拒否したことは誤算だった。ゲンドウの計画では、彼自身が神人アダム・カドモンとなって、先行してエヴァンゲリオンと同化していたユイ、そしてシンジと共に人類補完計画を遂行する予定だったのだろう。キリスト教の神は父、子、聖霊(聖霊は知恵の女神ソフィアの変化したものと言われている)の三身一体であり、これを再現しようとしたのだろうか。しかし、レイがゲンドウとの融合を拒否したことにより、人類補完計画はゲンドウの手を離れてしまう。
ゲンドウが人類補完計画をコントロールしようとしたことは、冬月との会話やゼーレとの反目という形で随所に見られる。それはゼーレの考えていた人類補完計画とは違うものだった。ゼーレはゲンドウを疑い、牽制しながらも彼の実行力に頼らざるを得なかったようだが、主導権を取り返すための計画も裏で進めていたのである。
「人類補完計画」には他にもいくつかの必要な条件があり、そこにゼーレとネルフの対立が見える。それぞれの目指したものは何だったのだろうか。

●知恵の実と生命の実

『まごころを君に』で冬月はこう言う。

「使徒の持つ生命の実とヒトの持つ知恵の実。その両方を手に入れたエヴァ初号機は神に等しき存在となった。そして今や、命の大河たる生命の樹へと還元して行く。この先にサード・インパクトの無からヒトを救う方舟となるか。人を滅ぼす悪魔となるのか。未来は碇の息子に委ねられたな。」

このセリフは人類補完計画の背景と、この時点での状態を端的に言い表している。初号機は神に等しい存在となり、人類にとって方舟となるか、悪魔となるかを、シンジが選択しなければならないと言うのである。
この選択支は、人類補完計画における対立点、ゼーレ版とネルフ版のどちらを選択するか、ということである。

「生命の実」と「知恵の実」を手に入れて、神と等しい存在になる、とはどういうことか。
この考え方は旧約聖書の創世記、失楽園物語に由来する。

神はアダムとエヴァを創造し、エデンの園に住まわせた。そして園の中央にある"生命の樹"と"知恵の樹"からは、実を食べてはならないという戒めを与える。神はその理由を、実を食べると死んでしまうからだと言う。
しかし、蛇がエヴァに近づいて、それは本当か、と疑いを抱かせる。実を食べても決して死ぬことはない、それを食べると目が開け、神の様に善悪を知るものとなるのだと言う。エヴァは知恵の樹から実を取って食べ、アダムにも食べさせた。二人は自分達が裸であることに気付き、イチジクの葉を綴って性器を隠し、物陰にうずくまって神から隠れようとした。神に疑いを抱き、神に背いたアダムとエヴァは罰を受ける。この原罪の咎によって、人は楽園を追い出されてしまう。

知恵の実を食べるとはどういうことだろう。
蛇は、知恵の実を食べるとその目が開かれて神のようになると言った。知恵の実は「善悪の知識の実」とも言うので、「その目が開かれて神のようになる」とは、善悪を自ら判断出来るようになり、そのうえで自分の行動を決めることが出来るということである。

つまり、「自由意志」を持つということだ。自由意志というのは悪と知りながら悪を選択することも出来るし、選択を誤ることもある。だから、自由意志で行動出来るようになると、その行動に対する責任も生じることになる。また、自由意志は、他者とは違う独自の選択が出来るということでもある。

となれば、他者との差異が生じる。差異が生じれば、自分と違う部分は理解し難くなるだろう。差異は比較によって認識されるのであるから、必然的に優劣を意識するだろうし、お互いに評価し合うことになるだろう。

このように差異によって他者と区別された時、優越感、劣等感、羞恥心、猜疑心、嫉妬心などの後ろめたい感情が生じたはずである。他者が存在するから他者を意識する必要があるのであり、他者がいない間は、自分の存在意義など思いもよらないだろう。
他者との差異がなければ、全てにおいて自分でなくても良いのである。このことは、クローン人間であるレイによって端的に表現されている。レイは常に、自分には代わりがいることを意識している。

このように他者との差異を認識した人は、それまでの様に無垢な存在ではなくなった。自らの暗部を隠そうとする心理が生まれたのである。だから、自由意志を持ったアダムとエヴァの変化は、二人の顕著な差異である性器を隠すことによって象徴される。知恵の実を食べて自由意志を獲得した結果、他者という概念が生じ、比較によって自らの存在意義を常に意識せざるを得なくなったのだ。
ネルフのマークがイチジクの葉をかたどっているのは、人類が手に入れた知恵を象徴しているのである。

物語ではこの後、人がもう一つの戒めを破り、「生命の実」をも食べてしまわないように、神は園から彼らを追放する。そしてケルビムと回転する炎の剣を置いて園へ戻る道を閉ざした。

では、「生命の実」を食べるとどうなるのか。知恵の実の効果から察するに、やはり神のようになると思われる。つまり死なない存在となるのだろう。この両方を手に入れるということは、自由意志と普遍性を持つ神に等しい存在になるということなのである。

このことが作品中で意味していることは何だろう。
先に引用したセリフで冬月は「使徒の持つ生命の実とヒトの持つ知恵の実」と言っているので、作品中にも知恵の実と生命の実が登場しているはずである。

使徒の持つ生命の実とは「S2機関」のことだ。
これを持たないエヴァンゲリオンは、アンビリカルケーブルによって電源供給を受けるか、内部電源で短時間の活動しか行えない。しかし、使徒はこのS2機関によって、エネルギーの問題を克服しているのである。

では人類の持つ知恵の実とは何か。
それは自由意志、即ち「心」である。TV版では常に使徒が心を持っていないことが仄めかされている。後半、心理攻撃を行う使徒も登場するが、そこでは心を持っているのではなく、むしろ心を理解出来ないことが強調されている。

リツコは第拾五使徒アラエルがアスカの心を知ろうとしているという仮説を立てるが、この時のニュアンスからすると、使徒には心が無いという前提で発言されているようだ。また、第拾六使徒アルミサエルがレイとの生体融合を試みた時、両者の間に心についての対話があった。
レイは使徒のうちに苦悩を見出し、それが「寂しい」という心の働きであることを教えようとした。しかし、そこに現れていた苦悩は、実はレイ自身の心の投影であった。

その次に登場した第拾七使徒タブリスには明らかに心があったが、彼はS2機関を持っていない。何故なら、ゼーレはタブリスの中にだけ、サルベージされたアダムの魂があるとしているので、心(知恵の実)とS2機関(生命の実)を同時に持っているとすれば、神に等しい存在ということになってしまう。

しかし、タブリスと同様の存在であるレイは、生命維持にリツコの力が必要になるほどに生命力を欠いている。これはタブリスも同じだったのではないだろうか。
彼は永遠に生きる可能性を口にしたが、それは単独で出来るわけではなく、エヴァ弐号機との同化が条件となるようだ。つまり、単独では永遠に生きられないということである。

ともかく、「心」と「S2機関」が「知恵の実」と「生命の実」なのである。そして先の冬月のセリフにある、両方の実を手に入れて神に等しい存在となった初号機とは、初号機にシンジが搭乗していることによって成り立っている。初号機は第拾四使徒ゼルエルを喰らうことによってS2機関を手に入れる。これを見た加持は、ゼーレの計画には無い事態であるが、ゲンドウの計画の内かもしれないと考えた。

このことから、ゼーレは「知恵の実」と「生命の実」を手に入れようとはしていないことが分かる。これを望んでいたのはネルフ側である。そして、シンジは人類なので当然「心」を持っている。タブリスが言うには特に繊細な心の持ち主なのである。ネルフ側はこの点で目的を達成したことになる。

●ロンギヌスの槍

一方ゼーレ側が必要としていたのはロンギヌスの槍である。
これは衛星軌道上の第拾五使徒アラエルを攻撃する為に使用され、そのまま月の周囲を漂うことになる。この質量の物体を持ち帰るのは不可能であるという日向の報告を受けたゲンドウは満足げであったが、冬月はゼーレが黙っていないと不安を感じている。
つまりゼーレにとっては必要で、ゲンドウにとっては無い方が都合の良いものであったと思われる。

ロンギヌスの槍は、新約聖書のヨハネによる福音書に登場する。
失楽園物語で犯された罪は、以後、全人類に受け継がれ、生まれたばかりの赤ん坊でさえその罪からはまぬがれることは出来ない「原罪」となった。罪には罰が与えられねばならない。原罪を持つ人類は、最後の審判を受けて悪魔と共に地獄の業火で永遠の責め苦を受けなければならなかった。しかし、神はひとりごイエスを救い主として遣わした。その無原罪の神の子が、全人類の身代わりとなって罰を受けることにより、人類を原罪から解放する為である。

人類に神の許しを与えるために、イエスはすすんで捕縛され、罪の無いままに十字架につけられた。この時、磔刑に立ち会ったローマ兵の一人が、本当に死んでいるのかを確認するために脇腹を槍で突いた。この兵士の名がロンギヌスであると言われている。そして、神を突き刺したロンギヌスの槍は、受難の象徴、あるいは大きな力を持つ聖遺物として伝説となった。

なお、磔刑によって死んだイエスは、3日後に死を打ち破って復活し、昇天して神の右の座についた。そして、世の終わりには、再び再臨を果たし、人類は裁きの日を迎えるのだと言う。

作品上のロンギヌスの槍はA.T.フィールドを突き破る力を持ち、『まごころを君に』での儀式に使用された。量産機と初号機による儀式はイエスの磔刑の再現である。ゲンドウの策略により一度失われたロンギヌスの槍は、儀式の仕上げをするために自ら戻り、贖罪の儀式を再現したのである。ゼーレの人類補完計画がこれを目指して計画されていたことを考えると、ゼーレは神に許されようとしたことになる。つまり、イエスの再臨を自らの手で成就させようとしたのである。

神になろうとしている男がいる、とゲンドウを非難するのは、ゼーレが正反対の主張をしているからこそなのである。

しかし、いざ儀式が完遂された時、アンチA.T.フィールドによって自我境界を失うという結果を、キールもゲンドウも受け入れていた。
ここまでは、両者予定通りでありながら、予定外の不確定要素をもはらんだままの展開でもあった。この自我境界を失うという展開は、両者にとって意味が違う。

ゼーレにとっては、知恵の実を返上するという意味になる。そもそも自我境界とは、禁止事項であった知恵の実を食べるという行為の結果に生じたものなのだから、それを清算したというわけだ。これはキリスト教的な解釈である。
ところがゲンドウにとっては、分化し劣化した人類を、完全な存在に引き上げることを意味する。こちらはカバラ的解釈である。

ゼーレの贖罪がどういうものだったのかを示すセリフがいくつかあるが、「サード・インパクトの無」とか「死」などと表現されており、どれも死を思わせるものである。一方、ゲンドウは死を克服することを目的にしていた。先の冬月のセリフで言えば、ゼーレの贖罪に対抗する「サード.インパクトの無から人を救う方舟」という表現になっている。また、『Air』冒頭のゼーレとの最終会談で、ネルフ側は「死は何も生まない、生きていこうとするところに人の存在がある」と主張し決裂していることからも解るように、ゼーレの「死」に対する「生」のイメージである。

このように人類補完計画には、神への贖罪、「死」を目指したゼーレ版と、神になること、「生」を目指したネルフ版の二種類が存在していた。そして『まごころを君に』で儀式を完遂した時、この両方の条件を満たしていたために、初号機に搭乗していたシンジがどちらかを選択することになったのである。

では人類補完計画とは、何を意図して作られた設定だったのだろう。

旧版『新世紀エヴァンゲリオン』論 (中)へ続く