※これはTV版+旧劇場版の解釈です。
ヱヴァンゲリヲン新劇場版』が始まってしまうので、未完成ですがアップすることにしました。

旧版:新世紀エヴァンゲリオン論(上)を先にお読み下さい。



(中)目次
●人類補完計画
●心
●自由意志
●第拾七使徒タブリス
●ミサト/加持
(上)からの続き

●人類補完計画

『Air』冒頭、ミサトは加持の残したマイクロフィルムの導きでネルフ本部のコンピュータに侵入し、人類補完計画の真意を確認した。

それは、進化の果てに閉塞状態に陥った、不完全な群体である人類を、完全な単体に人工進化させるという内容であった。閉塞状態を克服するための人工進化ということは、克服されるべき閉塞状態が作品中に描かれているはずである。

閉息状態という点で、全編を通して描かれていたのは、シンジの苦悩、他者とのコミュニケーション不全である。他者と分かり合うことの困難さ、不可能性がシンジを孤独にさせ、分かり合えたと思うと裏切られてまた孤独になるという繰り返しだった。
シンジを通して描写された閉塞は、決してシンジ個人のものではなく、人類全体が陥っている閉塞と重ねられている。

おそらく、人類補完計画のベースになっていると思われる形而上生物学、人工進化研究の本来の目的は、冬月やユイが目指したネルフ側の思想に近いものだったのではないだろうか。

その研究者の一人である赤木リツコは、生物は生き残るために環境に合わせて進化するが、進化の果てにはいずれ滅びる宿命にあるという考え方のもとに、第拾一使徒イロウルの進化を促進させることにより、進化の果ての自滅か、マギとの共生を選択させる作戦を立案した。

人類のように自由意志を持たない使徒は、死を回避する側の選択肢を選ばざるを得ないのである。そして、第拾一使徒イロウルの問われたこの選択は、裏死海文書と使徒の実在により、人類にも投げかけられることになった。

しかし、人類には自由意志があり、自ら死を選択する事が出来る。
『Air』で、日本政府はゼーレの要請により、戦略自衛隊によるネルフ本部直接占拠を執行したが、その際の首相と秘書の会話で、自らを憎むことの出来る生物は人類くらいでしょう、と言っている。

人類が種として自らを死に追いやるとすれば、容易に思い浮かぶのは全面核戦争だろう。
レミングの集団自殺のように、人類以外の生物でも死を選択する場合があるが、それはあくまで全体が生き残るために一部が死ぬという生への本能の要請であり、核抑止における報復にみられるような、全体の死の可能性は含んでいないのである。

他者を信じられないが故に、種としての自らを死に追いやるという、核抑止の中に孕む矛盾は人類滅亡の可能性の一つである。

この閉塞状態は、他者を理解できないことから発している。つまり知恵の実を手に入れたことにより生まれた、他者との差異によって引き起こされているのである。
そして、その閉塞を打ち破る為の「人類補完計画」には、ゼーレ版とネルフ版という、相反する二つの選択肢が存在しなければならなかった。

セカンド.インパクトが第二次世界大戦のメタファであるように、人類補完計画もテーマに沿った役割を持っている。先に、この作品がシンジの心の成長と、人類補完計画の進行を軸に展開し、その結果、シンジと人類の「父殺し」へと向かうという二重性について述べたが、人類補完計画の構造を見ることで、それが「心」について言っていることが解る。

フロイトによれば、人間の心は、生への欲求である性的自己形成衝動(リビドー/エロス)と、死への欲求である自己破壊衝動(デストルドー/タナトス)と言う2種類の心的エネルギーによって活動しているという。エロスは母の体内への復帰願望、タナトスは誕生以前の無機質への復帰願望である。エロスとタナトスは人間の根本的欲望であり、あらゆる欲求は元を辿れば全てここから発生している。

本来ゼーレが目指した「人類補完計画」とは、「知恵の実」を食べたことによって生じた、他者との軋轢を解消する為に、自我境界を喪失することによって自己と他者の区別がない、元の状態にリセットするということだろう。カバラ的に言えば、霊的で完全な存在から、性別、個性へと分化し劣化した物質的人類を、カバラで言う始原の状態、エン・ソフに還元するというものであった。これは誕生以前の無機質への復帰願望、つまり「デストルドー」である。

一方、ゲンドウ率いるネルフが目指した「人類補完計画」とは、人類と同じくリリス由来であり、母ユイがサルベージされているエヴァ初号機を拠り代にした、新たなアダム・カドモンの創造とでも言ったらよいだろうか。作品中の表現で言い換えれば、不完全な群体である人の形を捨て、完全な単体である新しい生物として生まれ直すという事になるだろう。これは全人類が自我境界を失い、全き一つの存在としてシンジに集合した時、まさに母ユイのサルベージされた初号機の胎内へと還るということだ。つまり母の胎内への復帰願望、「リビドー」である。

この作品は、この二つの葛藤によって大筋の物語が展開していく。そして個々の話では、人類の持つ知恵の実、「心」とは何かという考察を伴って作られている。シンジの父殺しへ至るストーリーラインを考慮すれば、この物語が人間個人の心の成長を描いた寓話となっているのである。

●心
リツコ「脳神経にかなりの負担がかかったようね」
ミサト「心、の間違いじゃないの?」

ケンスケ「君たちには人を思いやる気持ちはないのだろうか」
トウジ「わしらだけやなぁ人の心持っとるのは」

最初のセリフは第参使徒サキエルとの初陣で傷ついたシンジを話題にした会話である。
もう一つはミサトが昇進したことに気付かなかったシンジとアスカに対する非難である。

心とは何なのか。
一見聞き流してしまうような何でもないセリフではあるが、この心への言及は、感情や価値観なども話題にしながら、様々な形で毎回繰り返される。脳神経の働きによって生起する物理的な反応としての心、他者を思いやったり、人間関係を築いていく主体である心、苦悩し、喜び、悲しみ、寂しさを感じる主体である心、自分の心と他人の心の関わり。これらの考察は、やがて物語が進むにつれて、個々のキャラクターの内面や人間関係、使徒やネルフ、ゼーレの存在、そして人類補完計画への関わりを深めていくのである。

このように、この作品には「心」に注目するように促すセリフが随所に挿入されている。あるいは「心」という言葉を使わないまでも、心の作用や距離などを比喩的に表す言葉や状況もたくさん出てくる。

たとえば、第七使徒イスラフェルとの再戦のため、シンジとアスカが同居することになるエピソードがある。作戦前の最後の晩を二人きりで過ごすことになるが、この時、別の部屋で寝ようとしたアスカが、部屋を隔てるフスマを指して「決して崩れる事の無いジェリコの壁」と言う。ジェリコの壁とは、旧約聖書に登場する難攻不落の要塞のことである。

しかし、その前にもフスマが話題になっている。アスカはフスマを使う日本人の無防備さについて苦言を呈するが、ミサトは、それは無防備からではなく、日本人の信条である「察しと思いやり」という文化によるものだと説明した。

この二つの定義により、フスマは察しと思いやりゆえの信頼の象徴であり、同時に互いを隔てる障壁、不審の象徴となった。しかし、深夜にこのフスマは開かれ、対立していたアスカとシンジの間に、隠されていた心が垣間見えるのである。
因みに旧約聖書のジェリコの壁も、最終的にはヨシュアの信仰によって瓦解するのであり、アスカ自身がその希望をも込めて使った可能性はある。『まごころを君に』の溶け合う心の中で、アスカはこう言っているからだ。「あんたが全部私のものにならないなら、私…何もいらない。」

いずれにしろ、この「フスマ」というシンボルは、物語全体のシンボルであるA.T.フィールドと、人類補完計画の概念の先取りとなっている。A.T.フィールドの意味は後述する。

もう一つ例を挙げると、友人の結婚式に参加して酔ったミサトを、加持が家まで送って来るエピソードがある。この時アスカは加持からラベンダーの香りがすることに気付く。ミサトの香水の移り香である。ラベンダーの花言葉は「届けたい想い」であると同時に「疑い」でもある。
この香りはミサトにとってと、アスカにとっては意味が違う。ミサトは5年前に言えなかった想いを伝えたが、アスカはミサトと加持の関係の変化を疑い、この後、苛立ちを深めていくことになる。

この疑いはアスカ自身が生活の場で居場所を失っていくきっかけとなっているのである。ミサトの部屋に居場所を失うとヒカリの家に転がり込み、そこでも居られなくなってやがて廃屋へと移る。この状況の変化は心が荒んでいく様子を表している。

このように、この作品には無駄が無く、全てのTV版のエピソードが抽象的な『まごころを君に』を先取りし、その内容を説明している。そして全ては不可解なエピローグ、シンジがアスカの首を絞める理由に収斂されていくのである。
それを知る手がかりは「自由意志」にある。

●自由意志
使徒との比較において、人類の特徴は「心」を持っているということであった。それは知恵の実を食べたことで人類が手に入れた「自由意志」と同じ意味で使われている。この「心=自由意志」に注目すると、最後まで一貫したテーマが浮かび上がって来る。
TV版全体の「自由意志」に関わる部分を、大雑把に追ってみることにする。

TV版の第一話では、物語全体に関わる重要な問題提起がされている。シンジがエヴァに乗るか乗らないかの選択を迫られるシーンである。
ゲンドウは乗っても乗らなくても良いと言う。しかし、彼の自由意志に任されたにも関わらず、父との関係、人類の存亡、重症のレイにかかる負担など、周囲の圧力によって、彼の任意とは言いがたい状況での選択となった。エヴァへの搭乗を自分で納得せずに選んだシンジは、その後も「何故エヴァに乗るのか」という煩悶を続けて行くのである。
以降、この物語はシンジが自分の意思で何かを選択出来るようになる事が、ひとつの目的として進んで行くことになる。

自由意志による選択には責任が生じるが、自分に自信を持てないシンジにはそのリスクを負うことが出来ない。自分で判断しない為に、他人の言う通りにするが、何をやるにしても常にやらされていると感じている。初めの頃のミサトとの衝突は、主にその事への不服が原因になっている。

しかし、パイロットとして他者から承認されるという体験を通じ、自信をつけ、自らの存在価値を少しずつ信じられるようになっていく。

自信をつけたシンジは、自分の意志で選択し始める。

第拾弐使徒レリエルとの戦闘で、彼はミサトの命令を無視して、独断専行の先制攻撃を行う「選択」をする。その結果、レリエルの内部にあるディラックの海に取り込まれてしまい、死の淵に立たされる。つまり自由な選択の結果のリスクを体験する。

第拾参使徒バルディエルとの戦闘で、戦わないという「選択」をする。元々エヴァンゲリオン参号機であったバルディエルには、自分と同じ様な子供が乗っているのを察したからだ。人類の存続よりも、取り込まれているパイロット一人の命を選ぶ。これはシンジの価値観による自由な選択であると言える。

しかし、シンジの選択は、父ゲンドウの価値観に合わなかった。ゲンドウは、初号機のコントロールをシンジからダミープラグに切り替え、バルディエル殲滅を選択する。その結果、人類滅亡は回避された。
そしてこの後シンジは、参号機に乗っていたトウジを傷つけた、その「選択」の責任をゲンドウに求めて怒り狂う。
ここでは、自由意志の選択が、他者の選択と必ずしも一致しない事、そして「選択の結果のリスク」の責任は、選択した者にあるということを体験する。

その後シンジは父への反発から、人類の存続よりもエヴァを降りる「選択」をする。その結果、第三新東京市の防備は手薄になり、第拾四使徒ゼルエルが襲来した際、ネルフ本部は壊滅的な打撃を受けて人類滅亡が目前に迫る。

この時、シンジは戻りたかったはずである。しかし、悪いのはゲンドウだと意地になり、戻らないという「選択」をする。ジオフロントを守る装甲板のほとんどを瞬時に破壊され、弐号機は首を落とされ、零号機による捨て身の攻撃もダメージを与えることは出来ない。
力の天使ゼルエルの圧倒的な戦闘能力を目の当たりにし、自分がした「選択」の結果を見る。

ゲンドウへの当てつけの為に、人類が滅亡していいとは考えていなかったはずである。これも自分の本当の気持ちから出た選択ではなかった。そこで出会った加持に、本当は何がしたいのか、自分で考え自分で決めるように促される。その言葉を聞いて、ようやくネルフへ戻る「選択」をする。

サードインパクトは免れたが、外部電源を装備する余裕が無く、途中でエヴァンゲリオンが活動停止してしまう。しかし、皆を助けたいという意思は報われる。シンクロ率400%超えて再起動し、滅亡は回避された。

シンクロ率400%を超えたシンジは、LCLに溶け込んでエヴァ内部に取り込まれてしまう。ここでも、元の世界に戻るか戻らないかの選択はシンジの自由意志に委ねられた。シンジは戻る「選択」をする。この時、「もういいのね」という母ユイの声や、シンジの「また皆に会いと思った」というセリフから、彼自身の選択の結果である事が分かる。

これらの選択は、後にシンジがしなければならない、重要な選択の先取りとなっている。
それは人類補完計画によって、神に等しい存在となった時のことだ。全く誰に強要されることなく、自分だけの意志で、究極的な選択しなければならない。

そしてシンジは、第二拾四話でTV版における最後の選択を行う。

●第拾七使徒タブリス

それは、渚カヲル=第拾七使徒タブリスに対する選択である。
タブリスはシンジを好きだと言った。エヴァのパイロットとしてではなく、心が痛がりだから他人や自分を傷つけてしまう、ガラスのように繊細な心を持つ「ありのままの」シンジをである。それは幼い時に得られなかった無条件の肯定、シンジの苦悩の原因である自らの存在意義への不審を払拭する言葉だった。シンジにとってタブリスは、初めて無条件に存在価値を認めてくれた相手である。

そのタブリスを殺さなければ、人類が滅亡する。生き残る生命体は一つしか選ばれない。
トウジの搭乗している参号機、第拾参使徒バルディエルとの戦闘の時に迫られた選択と同様の問いが繰り返される。

タブリスとは、魔術書『ヌクテメロン』に登場する時を司る鬼神の内、六時を司る「自由意志」の鬼神である。そしてカホル(カヲル)は三時を司る「欺き」の鬼神である。

タブリス自身、2つの選択肢を持っていた。一つはエヴァ弐号機との融合を果たして、永遠に生き永らえる生への道。もう一つはアダムへ還る死への道。これは前述した2つの「人類補完計画」と同じ内容であり、シンジが後に迫られる選択の先取りとなっている。

タブリスは、自分にとって生と死は等価値だと言う。シンジ達人類には未来が必要だと言う。そして人類が生き残る為に、自分を消してくれとシンジに頼む。

ゼーレが、第拾七使徒であるタブリスを、ネルフを欺いて5thチルドレン渚カヲルとして送り込んで来たのは、予定(時間)を繰り上げる為である。そのタブリスが、未来あるシンジに「生」を残す為、自由意志によって「死」を選択して見せたのだ。
「時」を、「自由意志」を、「欺き」を司る名を冠する使徒が、時を早め、欺き、自由意志を示す。

ここで無抵抗の使徒をどうするかは、シンジに委ねられた。タブリスを殺して人類が生き残るのか。タブリスを生かして人類が滅ぶのか。シンジは、トウジの時とは逆の選択する。そして後悔するのである。
カヲルは自分よりもいい人だから、彼こそが生き残るべきだったとシンジは言う。しかし、ミサトはそれを否定する。生き残るのは、生きる意志がある者だけだ。

この後、シンジは「知恵の実」と「生命の実」を手にし、神に等しい存在となる。そして、ネルフ版とゼーレ版、どちらかの結論を選択しなければならない。この作品は初めから一貫して、シンジがこの選択に臨めるようになるための、成長物語として構築されてきた。
この点において、ミサトと加持は、タブリスと同様、シンジの選択を導く重要な役割を果たしている。

●ミサト/加持

ユングは、弱い父親と健全な関係を築けなかったが、フロイトを父のように慕い、反発し、決別することで「父殺し」を経験できたと言われている。
シンジも、本来の両親と健全な親子関係を築けなかったが、この物語の中で再度成長する機会を与えられており、その際、親のようにシンジを導く存在として、ミサトと加持が配置されている。

ミサトは、シンジが父ゲンドウとの間に感じている距離感を察して、保護者役を買って出る。父を嫌い、再会を躊躇するシンジに対して、「私と同じね」と共感を示している通り、彼女もかつて父親が嫌いだったからだ。
しかし、ミサトがネルフへ入ったのは、その父を殺した使徒への復讐の為であり、その象徴である父が遺した十字架のペンダントを常に首から下げている。

彼女は、セカンドインパクトの中心地から逃げ延びた、葛城調査隊唯一の生き残りである。回想によれば、多忙により不在がちの父と、寂しさに泣き暮らす母親に承認される為、良い子でいなければならないという強迫観念を持っていたという。彼女もシンジと同じような孤独感を持って育ち、父親との距離感をつかみ損ねていたに違いない。良い子でいることに疲れ、その環境を生み出した父親を嫌っていた。

ところが、これまで娘をないがしろにしてきた父が、自分を犠牲にして爆心地から彼女を逃がす。救命カプセルのハッチが閉まる瞬間に目覚めたミサトは、彼女を送り出す父の最後の顔を見た。問いかけるような彼女の視線の先にあった父の顔には、どんな表情が浮かんでいたのだろうか。

このことで彼女は、父親のことが「解らなくなった」と言っている。これまでの父のイメージは覆され、嫌っていたことへの罪悪感が生じたのではないだろうか。またその気持ちは、生きている内に父を理解しようとしなかったことへの後悔となり、せめて父へ報いる為に、その仕事に関わり、使徒へ復讐することを誓ったのだ。ミサトが何事にも後悔のないように全力を尽くすのは、このあたりから始まったように思われる。

以降、彼女は自分と似た気持ちに苦しんでいるシンジに関わり、不足しているものを補おうと努力する。誉めたり、叱ったり、団欒を楽しんだり、家族がいれば経験出来たはずの事を経験させる。他人の目を意識し過ぎるシンジに、自分で考え、自分で行動するように言い続け、積極的に生きる意思を持たせようとする。

そして、シンジを排除しようとする戦略自衛隊の銃弾を受けて死ぬことになる。我が子のように導こうとしたシンジを、父と同じく身を呈して守り、死の間際にもう一度、シンジとの間に横たわっていた問題を乗り越え
ようと想いを伝える。

「どんな思いが待っていても、それはあなたが自分一人で決めた事だわ。価値のあることなのよシンジ君。
あなた自身のことなのよ。誤魔化さずに自分に出来ることを考え、償いは自分でやりなさい。」

シンジは、誤りを犯す不完全な自分が、誰かの為にできることなど無いと言う。自分の選択と行動を全て否定して自己嫌悪を募らせるシンジに対し、ミサトは、誰にとっても「自分」というものは、そもそも不完全なものだと諭す。今の自分が絶対ではない。後で間違いに気づいて後悔し、ぬか喜びと自己嫌悪を重ねて前に進む。
間違わないことに価値があるのではない。自分が自由意志によって選択したことに価値がある。自由とは、誤った選択をすることもできるからこそ自由なのであり、自らの責任で行動を決められるということだ。

そして、ミサトは大人のキスをする。

シンジとの関係において、ミサトは常に保護者として振る舞ってきた。二人の関係に問題が生じた時には「保護者失格」と反省したり、叱ったり、誉めたりと、意識的に保護者であろうとしてきた。
逆に、シンジを恋愛対象として見るようなシーンは全く存在しない。

では、最後に大人のキスをしたのは何故か。
自らの責任で行動を決められるのは大人である。これまでは子供として導いてきたシンジを、最後に大人として扱ったのだ。

また、加持もことあるごとに、大人としてシンジへ助言をした。他者を理解することの不可能性、自分の行動を最終的に決定するのは自分であること、そして、後悔しないために、今、自分の出来ることを探す。
ミサトと比較すれば、シンジと直接関わるシーンは多くはない。しかし、かつてはシンジに似ていたミサトが、今のミサトになるために、彼が多大な影響を与えたと思われる。

ミサトが加持と別れたとき、他に好きな人が出来たと嘘をついたという。本当の理由は、加持の中に父親を求めていた自分に気がついたからだ。彼女は常に、加持に反発する形でコミュニケーションをとり、加持はそれを寛大に受け入れる。加持に対するミサトの、まるで子供のような大人げない態度は、父との関係を上手く築けなかったために生じた歪みを癒そうとした結果ではないだろうか。それに気付いて、加持との別れを選択した時、彼女は父殺しを経て大人になれたのである。

ミサトと加持は同じ考え方を共有している。ミサトは死の間際に、これで良かったよね?と、加持に問いかけている。ミサトがシンジに言った最後のセリフは、加持との関わりの中でミサトが得たものだったということが仄めかされているのだろう。

大人になりなさい、と送り出すミサトの微笑みは、次の瞬間、ドアが閉まって見えなくなった。
十字架がシンジに託さたことと合わせて、このシーンはミサトが父の顔を見た最後の瞬間を彷彿とさせる。
かつて父にしてもらったことを、自分がシンジにすることになった。
銃弾を受けてからのミサトは、おそらく自分が助からないことは覚悟していただろう。使徒への復讐の象徴である十字架をシンジに託した時、父のことが脳裏をかすめなかっただろうか。この時、今まで解らなくなっていた父の想いを理解出来たかもしれない。

ミサトが絶命した直後、ミサトの傍に一瞬レイが現れたことは覚えておかなければならない。何故なら彼女は、人は分かり合えるということへの「希望」なのだ。

そして、シンジの乗せられたエレベーターは初号機の元へ向かう。初めて初号機に搭乗することを決めた時と同じく、赤い血がついた手を見つめる。

エヴァンゲリオンに乗ることを拒否していたシンジに、ミサトの想いは伝わったのだろうか。

旧版『新世紀エヴァンゲリオン』論 (下)へ続く予定