目次

■はじめに
■アシタカ
■サン
■エボシ御前
■神殺し

※ 批評同人サークル思想脳労さんの評論本
『宮崎駿劇場作品解説本』に載せて頂いたものです。他に『千と千尋の神隠し』、『ハウルの動く城』についても書かせて頂きました。

【はじめに】
アニメ『風の谷のナウシカ』は、アニメ史の中でもかなり思想性の高い作品であったが、その後、13年の歳月を費やして描かれた漫画版では、より考え抜かれ先鋭化した内容に変化して行った。そこでの到達点を、『風の谷のナウシカ』以前から構想していた『もののけ姫』に組み替えて作られた、いわば集大成のような作品だ。

歴史や民俗学などの膨大な知識に基づいて日本史の空白を埋めるという意欲的かつ緻密な設定を背景に、新しい形の時代劇でありファンタジーでありと、あまりに欲張り過ぎている。監督自身、制作直後には、自分が一体何を作ったかまだ総括できてない、と発言していたが、あまりに巨大な作品である。この作品に対する評論の中でも、神話や伝承、思想などの本当に膨大な引用から読み解いて行くものがあるが、私にはとても網羅出来ないので、能力に応じて作品の中の構造だけに注目して読んでみようと思う。

【アシタカ】
アシタカは呪いを受ける。彼は罪を犯した訳ではない。村と乙女らを守る代償としては、あまりにも不条理だ。エボシの大タタラに業病の患者達がいる。その長はアシタカに共感を示し、その怒りや悲しみがよく解ると言う。現実にも、不幸は罰として罪人に下されるのではない。その行いに関わらず、全く不条理に訪れるものだ。

呪いの痣は、いずれ骨に達しアシタカを死に至らしめるものであり、避けようの無いものだと宣告される。彼は次の長になるべき人材として人望があり、本人もそれを否定しない。衰え行くこの村に、彼の他に適任者を擁していたとは思えないので、彼の喪失は村の将来に関わることだ。占いの席で「さだめ」という言葉で彼の旅立ちを受け入れた村人達は、同時に一族の滅びをも受け入れたということだろう。
そして彼は、死を迎える準備の為の旅に出る。呪われたとは言え村に残るかどうかの選択権は持っていたようなので、死ぬまで村に尽くすことも出来たはずだが、アシタカはそうしない。村が自分無しでやって行けるように、早く居なくなった方が良いと思ったのかもしれない。また、エミシの村で出立を見送る少女カヤは、彼を兄さまと呼ぶので近親かもしれないが、人口の少ない村では近親婚もあり得る。どちらにせよ双方に恋愛感情があるように思われるので、残れば彼女を不幸にするという想いもあったのではないだろうか。

アシタカは、呪いのせいで全てを失う。後は余命をどう過ごすかと言う立場になって、初めて手にすることの出来るのが「曇りなき眼」なのだろう。エミシを追いやったヤマトも衰えて歴史が動く時、あらゆる意味で本流の外側にいるアシタカの視点で、この物語は展開することになる。

【サン】
シシ神の森を守るモロ一族に属する彼女は、人間からは「もののけ姫」と呼ばれる。しかし、もののけ側からすると彼女は人間だ。アシタカは、エミシと同じく滅び行く一族の中に生きるサンに共感したのかもしれないが、いくら頑張っても異質なものでしかありえないサンは、アシタカとは違う。サンを解放しろと迫るアシタカを、モロの君は一蹴する。

「黙れ小僧! お前にあの娘の不幸が癒せるのか。森を侵した人間が、わが牙を逃れる為に投げて寄越した赤子がサンだ。人間にもなれず、山犬にもなりきれぬ、哀れで醜い可愛いわが娘だ。お前にサンを救えるか?」

共に生きることは出来ると言うアシタカを、更にモロは嗤う。どうやって?サンと共に人間と戦うのか?アシタカには答えられない。サンは自然の代弁者だ。自然に生かされている人間が、自然と敵対するならそれは悪ではないのか。しかし、呪われたよそ者のアシタカを暖かく迎えてくれた、タタラ場で生きる人々は森を切り崩して生きている。何故共存できないのだろう?

【エボシ御前】
エボシ御前はその背景を考慮する程、深みのあるキャラクターになる。アシタカがタタラ場のもてなしを受けた時、エボシについての話を聞く。周辺の砂鉄を採り尽くした人々は山の豊富な資源に目を付けるが、巨大な猪「名護の守」が守っているので手を出せない。戦いを挑んだタタラ師達が何人も犠牲者を出したが、山は手に入らない。そこに石火矢衆を率いたエボシ御前が現れ、名護の守を追い払う。そして山を切り拓いて、このタタラ場を築いたのだという。負傷した大猪は、走り走るうちにタタリ神となり、やがてエミシの村に辿り着いたと言う訳だ。

「砂鉄を採り尽くした」と言えばひと言だが、これは深刻な問題だ。名護の守に戦いを挑めば、生き残る方が難しいくらいだろうが、そうしなければ今日にも飢えて死ぬという状況だ。失業したからと、すぐに転職出来るような時代ではない。乳の出ない母親が抱える飢えた乳飲み子が、衰弱するのを黙って見ているしかないのだ。アシタカが旅の初めに遭遇した地侍の戦も、小競り合い程度のものだろうが、そこでは弱い者達からの略奪が行われていた。

エボシ御前がタタラ場に保護している人々は、皆そういう貧しい者達である。そんな慈悲深いエボシ御前は、どうやってタタラ場を築いたのだろうか。

名護の守を追い払った時、エボシ御前は石火矢衆を率いていたが、この兵士達は実は借り物だ。ジコ坊を派遣した唐傘連、あるいは師匠連と呼ばれる者達がエボシに貸し与えた。恐らく彼らは、強力な僧兵を擁する有力な寺院の集まりなのだろう。貸し与える条件は「シシ神の首」。不老不死の効能を持つこの首を、天朝様に捧げるという。恐らく、石火矢衆は師匠連のものではない。師匠連は神殺しの許可証である「天朝様の書付」なるものを持って、この件の主導権を握っている。この書付で地走りや石火矢衆、そしてエボシ御前などを集めて、この一大事業を監督しているのだ。

エボシは人の嫌がる神殺しを担当する代わりに、石火矢衆と資金を手に入れ、まず名護の守を討った。そしてタタラ場を作り、山を支配する。これを足掛かりに、シシ神の森でモロ一族を退け、タタラ場を拡大する。山を切り崩して少しずつ侵食して行けば、もののけの力は衰え、シシ神も討ちやすくなる。エボシは長期戦の計画を立てていたのだ。全ての勢力がどう動くかを計算し、タタラ場に築いたささやかな楽園をどうやって守って行くかまで考えている。

しかし、師匠連の使者、ジコ坊からの伝令は、あらかじめ合意があったはずの長期計画を覆すものだった。もう充分な金と時間をかけたのだから、すぐに約束を果たせというのだ。石火矢衆を貸し与えたのは鉄を作る為ではないと。
エボシは、師匠連が不老不死を信じていないことを知っている。「シシ神殺し」は事業を動かす為の口実ではなかったのか。より長く時間をかけて多くの資金を引き出す方が都合が良いはずだ。ジコ坊に問うが、彼は上の考えは分からないとはぐらかす。

予定が変わってしまった。しかし、もともとエボシの決意は悲壮感すら感じる厳しいものだ。神殺しの直前、タタラ場の女達を集めて、その後の見通しを語っている。師匠連はシシ神の首だけでタタラ場から手を引いたりしない。今は味方している石火矢衆も今度は敵になるだろう。男達は頼りにならない。女だけで武装して、タタラ場を守らなければならない。タタラ場が上手くいけば、そこを狙うものが現れることも読んでいたからこそ、タタラ場の中に武器工房を作り、独自に武装を進めていた。女が撃てる石火矢にこだわったのはこの為だ。

アシタカが指摘した、エボシの中にいる夜叉とはこの強い決意による。エボシは森を切り拓き、神をも殺す自らの罪を自覚している。はじめから全て理解した上で、それでもやらねばならない。アシタカがタタリ神を撃ったのと同じだ。だが、エボシのそれは規模が違う。アシタカの話す「曇りなき眼」と聞いた時笑ったのは、自分に似ていたからだろう。だから秘密の庭を見せ、同志になれと誘ったのだ。そして、アシタカが腕の呪いを皆に見せた時、賢しらに僅かな不幸を見せびらかすなと、叱ったのだ。エボシには既に考え抜いて出した結論だ。死んでいい人間はいない。ただ生きようとするのを、誰が咎められるのか。

エボシはシシ神を討ちに行く。これを果たさねば、タタラ場に未来はない。彼女は猪を一掃する為の作戦では、タタラ場の男達すら囮として見殺しにする。神殺しで出払っているタタラ場に、アサノ公方が攻め込んで来たと知らせを受けても表情を崩さない。女達には充分な武装をさせてある。今神殺しをやめれば、師匠連をも敵に回すだろう。いや、恐らく師匠連が神殺しを急がせたのは、タタラ場を手に入れる為の口実を見つける為なのだ。アサノ公方が神殺しの行われる日を知っていたのは、もしかしたら…。
どのみち、もう後戻りは出来ない。ここで神殺しをやめれば、帝を失望させることにすらなりかねない。エボシにはもうシシ神を討つしかないのだ。

【神殺し】
シシ神はエボシに討たれる。アシタカとサンは首を返すが、シシ神の森は無くなってしまう。そしてサンは人間を許せない。しかし、エボシはタタラ場に戻る。采配を誤り全て失ってしまったエボシの回りには、まだタタラ場の人々がいる。そしてアシタカもそこで暮らす決意をするのだ。サンの視線に耐えながら、自然を消費して生きていくしかない。アニメ『ナウシカ』では、ナウシカの取り成しで、人間と自然は和解した。しかし、『もののけ姫』では違う。
アシタカの曇りなき眼が決めたのは、その様にしか生きられない業を認識しながらも、その様に生きていくということだ。

シシ神の森は、もののけの力で人間を寄せ付けずにずっと来た。しかし、人間の進歩がその力を上回った時にそこを明け渡した。これからはもうシシ神は自然を守ってくれない。人間が奪い取った自然は、人間の責任で維持管理しなければならないのだ。消費し続ければいずれ人間も滅ぶだろう。人間が自然を削らなくては生きられないということは、自然がなければ生きられないということだ。現代が抱える環境問題は、シシ神の森を侵した時から始まっているのである。アシタカは、タタラ場で暮らしながら、サンと共に生きようと誓う。この結論の意味を、現代人は考え続けなければならない。

この結論は漫画版『ナウシカ』が最終的に到達した地点だと思われる。主題の変奏であるこの作品と、合わせて読むとより深い楽しみがあるのではないだろうか。