目次

■はじめに
■変化と対立
■湯婆婆と銭婆
■魔女の契約印
■中道電車
■千と千尋
■追記

※ 批評同人サークル思想脳労さんの評論本
『宮崎駿劇場作品解説本』に載せて頂いたものです。他に『もののけ姫』、『ハウルの動く城』についても書かせて頂きました。

【はじめに】
 千尋は文句ばかり言う、ちょっと不貞腐れて、無愛想で不器用で礼儀も知らない、返事も出来ない、お礼も言えない、言われるまで動かない…そこら辺によく居るごく普通のガキ…いや女の子だ。千尋のお父さんとお母さんも、ごく普通の良い両親だ。少し警戒心が足りなくて、つい子供から目を離したり、子供の頭越しに話したり、子供の言ってることを聞き流したりはするが…悪気はない。
 引越業者は引越するのが仕事なんだから、ちょっと遅れたって作業を進めといてくれるだろうし、屋台だってどうせ売れた方が嬉しいんだから、勝手に食べても後で金さえ払えば文句はないはずだ。カードも現金も持ってる、こっちは客だぞ、金さえあれば何とでもなるさ。
今の幸せを当たり前に享受して、感謝の心を持たない、感謝なんて誰にするの?非科学的だよ、なんて思っているごく普通の家族なのだ。明日リストラされるかもしれないし、子供が川で溺れたことがあるのに、相変わらず目を離したりするのだ。

 そういう善意の個人主義者が集まって出来た国では、きっとバブル期にあっちこっちで計画されて、バブルがはじけてみんな潰れちゃったテーマパークの残骸を、更にそのまま放置しておいたりするのかもしれない。
 でもしょうがないじゃないか。仕事が忙しくてそれどころじゃない。転勤を命じられて、子供が引っ越しヤダって不貞腐れても、笑いながら聞き流す以外にどうしろっていうのだ。

 我々は名を奪われて、帰り道はもう分からなくなっている。この世界では、仕事を持たなければ動物にされてしまう。雨が降れば海ぐらい出来るのは当たり前だが、いつか必ずこんな所は辞めて向こう岸の街に行ってやると、リンの様なことを思ったりするし、にが団子を両親に食べさせてやりたいなぁと思いながら、ついつい出来ずにいたり、会っても太ってて分からなかったらどうしようなんて思ったりするものだ。

 油屋はそんな所だ。子供が大人の世界の理不尽で不可思議な世界を体験する、要するに現代日本版、『不思議の国のアリス』という趣きの物語なのである。寓意性の高い不条理な表現や展開が多く、観る人によって色々な感情を喚起されるように出来ており、観るたびにちょっと考えさせられる。

【変化と対立】
 トンネルの入り口の様子が、初めと終わりで随分変わっているのに気がついただろうか?
冒頭は、赤く塗られたモルタル製で看板もついた油屋のそれだが、最後に戻って来た時には、白っぽい石垣の、まるで遺跡の様な似ても似つかないものに変わっていた。
そして、トンネルの前にある「車止め」のデザインも変わっている。トンネルに入る前は、前と後にそれぞれ顔が刻まれた二面像だったが、最後は何も刻まれていない。
これは何を意味するのだろうか。
 この作品は、「前」と「後」の時間的な変化の対比と、もう一つ「油屋(=湯婆婆)」と「沼の底(=銭婆)」という空間的な対比の構造がある。

【湯婆婆と銭婆】
 この双子の魔女は対立関係にある。湯婆婆はハクを使って、銭婆の持つ「魔女の契約印」を手に入れようとしている。この二人はソックリ同じ顔であるが、価値観はかなり違う。
同じ魔女でありながら、湯婆婆は部屋の片付け等の日常のことまで全て魔法でこなす。一方、銭婆は扉も手で閉めるし、お茶も自分で入れる。髪留めも魔法で作っては意味が無いと、糸を紡ぐ所からやる。湯婆婆は油屋の会計から集金まで全て管理し、砂金の一粒まで目を光らせて大きな成果を上げているが、銭婆は自分一人が慎ましく生活出来る最低限の暮らしをしている。

 子育てに関しても違う。湯婆婆は坊を溺愛しており、おんもはバイ菌がいっぱいだから部屋から出ないようにと言い聞かせている。可愛がっているようで、実は全然、坊のことを考えていない。仕事で忙しくしているお詫びに、オモチャとお菓子を買い与えて部屋に閉じ込めている。銭婆の魔法で、頭共が化けている坊を見ても、坊ネズミを見ても、全く気がつかないのである。
 一方、銭婆は坊をひと目みるなり太り過ぎだと言って、ネズミに変えてしまう。
家事を手伝わせたり糸巻きをさせたりして、上手くできればちゃんと誉める。自立を促すようにさりげない気配りをするのだ。結果、坊はやれば出来ることが判明、一人で歩ける所を見せて、湯婆婆を驚かせている。なりは赤ん坊でもあの大きさだ。センの腕を折るなどと言っていたが、本当は何歳なのだろう?

 こう見ると一見、銭婆が正しい様に見えてしまうかもしれない。しかし、この世界にやって来たセンは、湯婆婆によって鍛え直されたのだ。銭婆の所で家事を手伝っただけでは、あそこまで成長したかは疑問である。これは子供を厳しい環境において労働をさせれば良いという意味ではない。湯婆婆には、銭婆と違う種類の厳しさがある。全ての人間が糸を紡いで生きて行く訳にはいかない。湯婆婆は社会の厳しさであり、進歩や繁栄を求めるという前向きな価値観でもあるのだ。
 銭婆はこう言っている。「あたし達、二人で一人前なのに、気が合わなくてね。」
まるで、トンネルの前にあった「車止め」のようだ。互いに反対側を向いている同じ顔が二面、対になっている。
 この対立する価値観を持つ二人が奪い合う、「魔女の契約印」とは何だろう?

【魔女の契約印】
 「魔女の契約印」は最初、銭婆が持っていた。もし、銭婆がその力を行使していたならば、効果も分かるのだが、それを示すシーンやセリフは無い。しかし、湯婆婆はこれを手に入れることで、なんらかの恩恵を受けるはずだ。「魔女の契約印」というからには、「契約」に関わるものなのだろう。

 作中で登場する「契約」のシーンとしては、センを雇う時のエピソードがある。しかしこの時は「契約印」などなくても、センのサインがあれば良かったのだ。つまり、労働者と雇用契約を結ぶ時には使わないと言うことだ。
 湯婆婆は、「契約」に関して不満を口にした。同じくセンを雇う時にこう言った。
「つまらない誓いを立てちまったもんだよ。働きたい者には仕事をやるだなんて」
彼女は過去のある時点で、就労に関する何らかの誓いを立てた。それを、今は不満に思っているということだ。

 この物語の世界には、いろいろな決まりがあり、破られた時の代償や報いがある。
神の食べ物に手を出すと、豚に変えられる。この世界のモノを口にしないと消えてしまう。仕事を持たない者は動物に変えられてしまう。働きたい者には仕事を与える。カオナシはセンが迎え入れないと油屋に入れない。クサレガミが玄関まで来たら、追い払うのをやめて受け入れる…。手段を選ばないように見える湯婆婆でさえ、文句を言いながらも決まりを守るのだ。

 彼女は決して自由ではない。湯婆婆は、油屋というあれだけ大きな組織を運営していく上で、少なくとも「働きたい者には仕事を与える」と言う約束は作ったのであるから、同様の様々な決まりを一緒に作ったはずである。
 しかもその内容は、「労働者」ではなく「湯婆婆」を縛る為の決まりなのだ。雇用主がまず条件を提示し、合意出来れば初めて契約を交わすのだから、これが無ければ個々の労働者と契約を交わせないだろう。湯婆婆はこれをもっと自分の自由にしたいのだが勝手には出来ない。
だからこそ、不満を言いながら従うのだ。
 センやリンが約束さえ守っていれば、就業時間に制限があり(カオナシが豪遊したのは時間外だった)、部屋をあてがわれ、食事を保証されるのはこの決まりがあるからだ。これが無ければ、労働者ではなく奴隷になってしまう。

 さて、この野望を達成するのに必要なのが「魔女の契約印」だとしたらどうだろう。勝手に新しい決まりを作ってこの印を押せば、これからは新しい契約が発効するのだ。
何故、銭婆が「魔女の契約印」を持っていたのだろう。かつてまだ姉妹が仲良くやっていた頃があって、油屋の創業に立ち会ったのかもしれない。そして二人の価値観で決まりを作り、頑張り屋の妹が経営権を、ゆとりを大事にする姉がその暴走を抑える為に契約印を預かったのかもしれない。とにかく「魔女の契約印」の奪い合いは、油屋で働く全ての者にとって重大な事件なのだ。センは皆を守ったことになる。

【中道電車】
 水面を走るこの電車には黒く半透明の客が乗っている。夕闇の中、一人、また一人と降りて行き、やがてセン達だけになる。窓の外、薄暗がりの中にネオンが通り過ぎる。やがて銭婆が住む「沼の底」へ到着する。深い瞑想によって無意識下へ辿り着く様な、不思議なシーンだ。

 この湯婆婆の住む「油屋」から、銭婆の住む「沼の底」へ向かう電車の正面には「中道」と書かれている。
 「中道」とは仏教思想の根本的な概念で、両極端を離れることによって得られる、偏っていない正しい道のことだ。湯婆婆と銭場を、対立する価値観として表現した監督は、どちらが正しいか、という単純な物語を作ったのではない。この電車は、以前は行き来していたが、最近は行ったきり帰って来ず、片道しか走っていないのだ。
 これは何を意味しているのだろう。少なくとも、現代の問題として、この「偏り」が不健全であると考えているのだろう。
 「油屋」と「沼の底」に何を代入するかは、個々の観客が心の中に感じる部分があるはずだ。
内なる湯婆婆と内なる銭婆の対立を、どちらにも偏らず調停出来るだろうか。変化のない日常を忙しく過ごしていると、心が麻痺して全て当たり前の出来事に思えて来るが、そんな状態は名を奪われて集団や仕組みの中に埋没して、油屋の構成部分に成り下がってしまうということかもしれない。

【千と千尋】
 千尋は初め、転校することを悲観的に捉えている。これは自分で決めたことではない。親が勝手に決めたことで、自分は被害を被っているという態度だ。
 もしこの千尋を、両親が食用の豚になってしまい、キツイ油屋の仕事を住込みで毎日やらされて、学校なんかには行けない「セン」が見たらどう思うだろう。甘ったれの贅沢な娘だと思わないだろうか。

 冒頭のトンネルに入るシーンと、最後のトンネルを出るシーンは対になっており、同じ動画をそのまま使っている。
千尋が母親の腕にしがみ付く。「千尋、そんなにくっつかないでよ。歩きにくいわ」

冒頭の千尋は、中へ入るのが怖いので、保護を求めてしがみ付いている。
しかし、最後の千尋はちがう。ようやく人間に戻った両親を心配して、もう失わないようにしがみ付いているのだ。千尋はもう自分だけのこと考えたりしないだろう。恵まれた環境を当たり前だとは思わないだろう。幼い頃に川で溺れ死なず、今日まで生きてこられたことに感謝するだろう。自分が生かされていることを意識するだろう。
移ろい行くあるがままの「本当の世界」を、感じ続けることが出来るなら、河の神であるハクと、いつか本当に巡り合うことが出来るかもしれない。

【追記】
絵コンテに、完成段階では変更された、元のセリフがあった。

釜爺「そのハンコがあれば、湯屋の労働協約が変えられるんだ。
   そうしたらここで働いているオレ達は、みんな魔女のドレイにされてしまう」
ちひろ「わたし、もうドレイかと思ってた」
釜爺「フン、オレ達はれっきとした労働者だ。自分で決めてここで働いてるんだよ
   風呂屋にいるのも、出て行くのも自由さ」

 直接的過ぎる。カットして正解。比喩や寓意がいかに大事か分かる。