『少女革命ウテナ』TV版の解釈の補稿。

この文章を読む前に『少女革命ウテナ論〜デミアン・オスカル・ユングそして賢者の石』を読む事をお薦めします。
■『少女革命ウテナ』における薔薇と剣の意味

決闘システムはこの作品の中心的な設定である。決闘場では胸に薔薇をつけ、剣を持って闘う事が義務づけられている。胸の薔薇を散らされた者は敗者であり、剣を持たぬ者の決闘は禁じられている。単純に言えば、薔薇の凋落は死を象徴するし、剣は正義を象徴する。そのまま見ても、対立者の主張の優劣を決する戦いには相応しいルールである。
しかしこの薔薇と剣は、決闘場以外のシーンでも意味ありげに登場する。特に全ての物語が終わった後の「この薔薇があなたに届きますように」というスタッフからのメッセージをも含めて解釈する必要があるだろう。

象徴表現にこだわるこの作品の中で、薔薇と剣は何を意図して使われているのだろうか。

 

■棘(とげ)

黒薔薇編では、悩めるサブキャラクター達が抑圧された願望を実現する為に、デュエリスト達メインキャラクターの胸から「剣」を引き抜いて決闘に臨む。御影草時は、この胸から引き抜かれる剣を「棘(とげ)」と表現した。胸中に隠された棘(=剣)を引き抜く時は、その内に秘められた願望を明らかにしているので、棘は願望を実現出来ない事による苦しみの象徴のように思える。この棘は、胸に刺さっているうちは苦痛の象徴であるが、引き抜かれればその願望を実現する為の力の象徴となる。メインキャラクター達の抑圧された願望が、黒薔薇の刻印を持つサブキャラクター達の願望と重なって表面化するという演出は、無意識の振る舞いを擬人化して表している。『少女革命ウテナ論〜デミアン・オスカル・ユングそして賢者の石』で述べたように、黒薔薇編での黒い衣装の刺客は、無意識下の願望を解放しようとするシャドウなのである。そして、これらのエピソードにより「棘=剣」という定義が成り立つ。

この定義を使えば、もう一つの棘の考察が可能になる。暁生が傍に置いていたサボテンの棘である。これを御影の言ったように「棘=剣」と考えれば、棘だらけのサボテンは、百万本の剣に刺し貫ら抜かれる薔薇の花嫁を象徴しているのではないだろうか。作中にサボテンが登場する際には、常に薔薇の花嫁、あるいは女性の地位が話題になっていることからも、そう考えて良いだろう。



■薔薇と棘

「ひときわ美しく咲く薔薇は、やはりひときわ危険な棘を持つ。」
美しい薔薇には棘がある、と御影が言うように、薔薇と棘はセットで考えてなんら不自然は無い。
棘は受難の象徴である。これは、キリストを磔刑にする為に捕縛したユダヤ人達が、ローマ皇帝の「薔薇の冠」を模して戯れにかぶせた「棘(いばら)の冠」に由来する。暁生の身代わりに百万本の剣を受けるアンシーは、人類の罪の身代わりとなったキリストにも重なる。この受難を象徴する棘だらけのサボテンは、やはり薔薇の花嫁を象徴していると考えてよいだろう。象徴学では棘と薔薇を併置すると、苦痛と快楽などの「対立物」を表す。棘(百万本の剣)を受ける薔薇(薔薇の花嫁)は対立物を表しているが結合されてはおらず、不自然な状態を表している。錬金術でいう結婚(対立物の結合)に対比された近親相姦の状態を象徴しているのだろう。あるいはキリストに似てはいるが異なるという意味で、ウテナや溺れた少年の示した気高い献身とは逆の、暁生への従属、隷属の状態とも言える。



■対立物の結合

本来、薔薇はそれ一つで、天上的完全性と地上的情念、時間と永遠、生と死などの矛盾した意味を含む両義性の象徴であり、特に赤い薔薇と白い薔薇を併置することにより、対立物の結合を意味する。幼いウテナの棺に敷き詰められていた赤い薔薇、生徒会編の幻影に現れたアンシーの棺に敷き詰められていた白い薔薇が、それぞれが担っている役割と、その目指す結論を暗示している。決闘で胸に着ける薔薇も然り、物語が「対立物の結合」を目指している事を暗示しているのである。
この結合されるべき対立者が剣で闘うとは何を意味しているのだろう。



■薔薇の刻印

「剣」は、肉体と魂、天と地などの分かちがたいものを分かつ力を表している。つまり、赤い薔薇と白い薔薇を着けた対立者を剣によって闘わせた暁生は、対立物の結合を目指してはおらず「剣」のみに執着している。ウテナの指輪は、他のデュエリストと違う時期に、ディオスによって直接与えられた。あの指輪はディオス自身の物だったのかも知れない。気高さの象徴であり、対立物の結合を目指す印、「薔薇の刻印」を幼いウテナに与えてしまったということだ。薔薇の刻印を持たない暁生(ディオス)は、自ら「俺はデュエリストではない」と断言している。



■薔薇の門とディオスの剣

この薔薇と剣の意味は、物語の顛末の理解に役立つ。暁生は決闘ゲームで勝ち抜いた者の剣を使って「薔薇の門」を開けようとしていた。しかし、薔薇(対立物の結合)を剣で分かとうとした暁生は間違っており、その目論みに反して門は開かない。一方、薔薇の刻印をはめた手で薔薇の門を開けようとしたウテナの前に、門は開かれた。ディオスの剣では開かない門が、薔薇の刻印で開いた。これはどういうことか。

「ディオスの剣」は、願いを叶える「ディオスの力」の具現化である。ディオスだった暁生はこれを失った。この失われた「ディオスの剣」とは、暁生の胸の棘(=剣)だったのではないだろうか。この作品における「剣」とは、理想や願望の象徴であり、その想いが実現しないうちは胸に刺さった棘として苦しみを与える。しかし、これを引き抜いて使うことが出来れば、奇跡を起こして理想を実現出来るのである。

かつてディオスの持っていた大きな理想は、その実現が困難であるため、ひときわ鋭い棘となって彼を苦しめていたと思われる。そしてその苦痛に耐える強さと気高さを持っていた彼は、この剣を引き抜いて奇跡を起こしていたのだろう。しかし、大きな困難にぶつかった時、彼は「ディオスの剣」の与える苦痛に倒れ、外界の圧力に対抗出来なくなってしまった。苦しむディオスを案じたアンシーは、「ディオスの力」を封印した。「ディオスの力」を封印すると言う事は、理想の実現を諦めると言う事である。理想や願望を持たなければ、それに伴う苦痛もなくなるはずであった。困難に立ち向かわなければならないはずのディオスは苦しみを免れたが、その代わりに願望を抑圧したアンシーは百万本の剣によって苦しまなければならなくなったのである。
このように、ディオスをやめた暁生は、理想を放棄した現実主義の大人として描かれている。暁生に剣が無いのは、実現したい理想が無いからであるが、ただ力だけを求めて失われた剣を再び手にしようとあがいているのである。剣にだけこだわった暁生は、薔薇の刻印は重視しなかった。「デュエリストではない」ということは、気高さを捨てたという意味なのである。

暁生は、ウテナを背後から刺したアンシーに、後悔しているのかと問う。アンシーは世界の全てを知った上でこの道(気高さを捨て、力を求める道)を選んだ暁生を支持した。

一方、ウテナも全てを知った。天の城がまやかしであったこと、そして自分が汚れていること。
気高さと理想を振りかざし、アンシーを元の苦痛に満ちた世界へ連れ出そうするウテナの矛盾を暁生は責める。フィアンセのいる暁生を拒まなかったウテナも、近親相姦をしていた暁生と同じく汚れている。

「真実の自分から目を背けて、他人を責めるのは卑怯じゃないのか?自分だけが清らかで、正しいつもりでいるのは卑怯じゃないのか?」

そして、救い出そうとしていたアンシーに拒まれ(背後から刺され)、ウテナは「世界の果て」を見ることになる。ここではじめて、ウテナと暁生は同じ立場に立った。かつてのディオスのようだったウテナが、かつてのディオスと同様に挫折を味わったのである。



■薔薇

この後のウテナの行動は、暁生とは違っていた。ディオスの剣は折れてしまい、薔薇の門を開けるのは不可能になっていた。薔薇の門に触れれば、門がウテナを殺すだろうと暁生は言った。
救おうとしていたアンシーにさえ拒まれた今、何故、命を懸けて薔薇の門を開かなければならないのか。手段も目的も失ったかに見えるが、おせっかいな王子様であるウテナは諦めなかった。

それまで強さと気高さを失わなかったウテナは、暁生の策謀にはまり汚れてしまった。しかし、この挫折を経て学んだものがあったのではないだろうか。強さと気高さ故に、弱さを理解出来なかったウテナが、以前から言われているような「おっせっかいな王子様」のままだったのだろうか。ボロボロになった惨めな最後のウテナを突き動かしているもの、そこにかつてのような、理不尽な決闘システムへの憤りや、卑怯な暁生への怒り、弱く後ろ向きなアンシーへの苛立ちは無い。ウテナが持っていなかった「何か」が、この時のウテナを動かしていたのではないだろうか。それはアンシーが持っていたものと、ウテナが持っていたものの両方から発している。幼い時のウテナの決意が成就する。

「君に会う為、僕はここまで来たんだ。だから、君と僕の出会う、この世界を恐れないで」

赤い薔薇を敷き詰めた棺から来たウテナが、白い薔薇を敷き詰めた棺の中にいるアンシーと出会った。「やっと会えた」とウテナは言った。

END